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2009/08/06 Thu

Category: つぶやき

病気の犬は不幸なのか?

調べ物をするためにインターネットを使っていると実に多くのサイトがヒットする。最近はブログが多くどのページにもコピーのように同じことが書いてあって的を得たページにヒットするのは至難の業となることも多い。

でも逆を言えば今まで見ることのなかったページがヒットすることもある。毎日毎日の新規記事ではなくその人の想いに行きつくこともある。

「この子は不幸なの?」という言った意味のタイトルで書かれたブログに行きついた時、正直言ってほっとする自分がいた。あぁここにも同じように病気を受け入れられた飼い主がいた・・・この子は幸せな一生を送るだろうなと楽しそうな毎日を綴った日記を読ませてもらった。。。


自分なりにこう考えてあげられたら犬との暮らしは明るい幸せなものになると思うと伝えたい意志も思ったようにうまく伝わらない感がある。犬も個性様々なように人も個性様々だから考え方の違いもあるし同じ文章や言葉の解釈が同じであるとは限らない。

心に一物を持って発言した言葉でなくても嫌味にとられてしまうことだってあるし、考え方の違いから逃げているとか思われることもあるだろう。伝えたいことが伝えたいように相手に伝わる可能性なんてものすごく低いものだって思う。

本来人間は言葉という特殊な道具を使いこなせるように進化し、相手の顔の表情や言葉を発するときの仕草や声色によって、言葉の裏に隠された内面を推し量る能力があった。だから社交辞令も通用したし、本気も伝わったのだろう。

でも今はどうだろう?

相手との接触を避けてしまうがために、顔を見ない手段をよく使う。その上に声すらも聞こえない手段のほうが選ばれるようになった。
人間は文章だけでは相手の本当の感情読み取ることはできないことが多いというのに。

相手の感情も読み取れず言いたい放題突き付ける自分の意見で相手が傷ついていると気がつきもしないことは多い。インターネットやメールといった便利で不可欠な方法論のデメリットの部分だろう。掲示板・ブログの炎上とかは対面して話し合うことのない自己中同士の表現のぶつかり合いかもしれない。

子供はともかくも、大人として多くを学んでいれば守るべきものも存在するし、わざわざデメリットを選ぶものはいない。自己防衛をするのが大人だ。私も長い年月インターネットやメールを利用していていろんなことがあるけれど、多少頭に光がさしたように思う。

そんな状況の中でそれでも伝えたい何かがあれば人は自分の意見を発信し続ける。世界中のどこかの誰かが自分の書いたことを読むチャンスがあり、共感してくれるその瞬間のために。

「この子は不幸なの?」という問いかけは私もいつも思っていたことだった。我が家にはたくさん老犬もいるし、いちいち公開していないけれど、障害を持った犬もいるし、病気と闘う犬もいるし、この闘病日記の主役である「寝たきり老人」になったマリンもいる。

同じようなことになった時何かの手助けになったらいいなという思いと、自分の犬へやってきたことの記録の一部として書き続けている日記は、お涙ちょうだいのために書いているわけでもないし、人気取りで書いてるつもりもない。もっと言うなら、あんな犬がいるとか病気ばかりなのねと中傷されるために書いているものでもない。

それは同じようになったことが無い人には決して判ることのない世界の話だろうと思う。。。

そんな背景を保ちながらヒットしたページは同じ思いにあふれていた。実に前向きで犬と一緒に暮らしているその幸せを十分に知っている内容だった。

何の問題もない犬としか暮らしていない人や犬と暮らしていない人たちの中には、病気になったり障害を抱えた犬と暮らしていることを知ると「大変ね」「かわいそうに」「治らないの?」「休まる暇がないわね」と多くの言葉を投げかける。犬は生き物だから人と同じようにいつどこで病気になったり怪我をしたりするかもしれないって当たり前でしょと話したら、「普通、犬を買うときにそんなこと思ってもみないわよ」と反論されて絶句したことがある。


はぁ?犬は死ぬまで元気で最後はコロッて逝っちゃうものってこと?獣医さんは予防注射以外に行くようなことはないのが当たり前だって言うの???純血種の犬たちがみんなそんなものだって思っているの?

そんな風に健康なまま一生を終えられたら素晴らしいなっては思うけれど、それは理想であって現実じゃないと思うけど。。。理想に近づけるように頑張っていても理想=現実になることは少ないと思うよ。でも・・・ふつうは犬を買う時にはその程度にしか犬の一生を考えていないことが多いのか…ショックだった。

考え方の違いに言葉が詰まる。山ほど言いたい言葉を飲み込んでしまった。

私は「青い瞳のマリン」にも書いているけれど、犬を飼うってことはいつの日か人と同じように寝たきりになってボケちゃったりする日が来るかもしれないから、自分一人のときにも抱いて獣医さんに走れるような大きさの犬を選ぼうと考えたくらいだ。

犬を買う時にすでに病気になることも障害を抱えるかもしれないことも想定して決断した。そうなんだ…普通の人はそんなこと考えたりしないんだ…。思ってもみなかった。


ある友人は足が悪い愛犬をカートに乗せて散歩していたら「最後まで面倒みてあげてね!」と笑顔で話されたと言って悔しがって泣いていた。
その悔しさが、心臓に突き刺さった他愛ない一言の鋭さに痛みが走る…。返す言葉が出ない悲しみは、相手には伝わらないままだ。

「あなたと暮せて幸せだね、良かったねぇ〜!」と私ならこんな言葉をかけるだろうと思う。カートに乗せて歩けない犬をお散歩に連れ出してあげる優しい人がその子が天使になるその日まで面倒をみないはずがあるものか…言葉は使い方次第で凶器にもなるのだ。

足を失ったって、耳が聞こえなくなったって、治らない病気になってしまったって、目が見えなくなったって…すべてが問題のないことだけが幸せなわけじゃない。受け入れられることこそが犬たちの幸せだと思っている。

彼らは人と違って言葉を話さないから「かわいそうに」と言われても反論することはないだろう。でも人だったら?もし自分だったら?

病気になってしまったことを悔いるかもしれない。家族に迷惑をかけることで心労にさいなまれるかもしれない。障害を負ってしまったら、自分のことが自分でできなくなってしまったらどんな思いでいるだろう。

自分自身の責任で追ってしまう不幸ではなくたって、自分自身以外に負担をかけて生きるということは辛いことだ。犬たちは最初から人と生きることはヒトに寄生して生きなくてはならない。食事すら自力では得ることができないのだから。与えられたものしか食べることはできないのだから。

生きるって言うのは笑いもたくさんあるかもしれないけれど、泣くこともあるだろうし心が潰れそうに心配することもある。それは私たちが人間だから。

一緒に暮らす家族が病気になってしまうことや障害を負ってしまうことを罪悪だとは考えたくない。それはたとえ相手が犬であろうと人間であろうと変わることのない部分だ。

病気の犬は不幸ですか?耳が聞こえないことは不幸ですか?歩けないことは不幸ですか?目が見えないことは不幸ですか?不治の病は不幸ですか?

本当の不幸はそのことを一緒に暮らす人に受け入れてもらえないことだと思う。本当の不幸は病気や障害を抱えてしまったことを健康ではない=悪いこと・かわいそうなのだと思われ続けることだと思う。

優しい言葉かけと、柔らかい愛撫と、おいしい食事を与えてくれ、いつも自分を見続けて手助けしてくれ、その苦労をいとわない・・・そういう信頼する飼い主がそばにいれば、どんな障害や病気を抱えた犬もきっと不幸じゃないはずだ。私はそう信じて家族と、犬たちと、暮らしている。

もちろん意図的に病気になることがわかっているような繁殖はいけないことだし、障害を抱えて生まれるような可能性の大きいことが分かっている繁殖はしてはならないものだ。

でも、純血種といわれる犬はすべて人間が求めた結果を作るために意図的に病気や障害を起こす遺伝子を残した結果の作出物であることを忘れてはいけない。どんなに科学が発達しても、すべての問題を排除することは不可能だ。もしもできた時には今存在する純血種と呼ばれる様相にバリーエーションのある個体はいなくなっているだろう。

この背景を背負って、普通の犬たちはその一代で生涯を終える。血がつながらないことの幸せもきっとあるだろうと思う。繁殖に関わらないかぎりその犬が生きて生まれてきたことに大いなる意味があるはずで、病気になっても障害を持っても、幸せになる権利がきっとあるはずだと信じている。

犬は生き物なのだから病気にもなるし怪我もするのです。その原因が何であれ、ともに暮らす家族であるのなら犬たちが苦しまずにできるだけ穏やかに暮らさせてやろうとするのが愛犬家たるものだと思うのです。
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